SPECIAL INTERVIEW



軍歌を口ずさみ家業を手伝う、漁師と魚屋の血が流れる中学生

フィッシュロックを掲げる『漁港』の船長・森田釣竿の主食はやはり魚。

「魚以外の肉はあんまり食べないなぁ。たまに食っちゃうけど。大きい仕事が終わったときって、オ○ニーしたくなるじゃないですか?(笑)肉はそういう感覚。あ、煙草、吸わせていただきます。すいません、生意気で...」

乱暴なようで、礼儀正しい。海を愛する男の臭いがぷんぷんする。

「父親の方のおじいさんが漁師で、母親の方のおじいさんが魚屋。漁師と鮮魚商人の血が流れているからですかね。今はもう浦安の海は埋め立てられて面影が薄いし、漁師はほとんどいないんですけどね」

そんな森田は、父親や祖父の口から最初の音楽を耳にした。

「親父達が手拍子で歌う野歌が最初でした。バックトラックは手拍子のみ!みたいな。小さい頃、よく歌っていたのは軍歌、演歌、民謡。おじいさんが歌う軍歌はとても悲しかった。戦死した仲間に負い目を感じながら話しかけているような感じがして、幼い時分にその影響力は強かったですよ。それから軍歌しか歌わない子供に育ってしまいました(笑)。」

軍歌を口ずさみながら、家業の魚屋を手伝ったりしていたわけである。

「手伝うというより、売らないといけない。魚は生ものだから絶対に売り残せないんですよ。魚が売れることで飯食わせてもらっているわけだからね。小さい頃から魚屋になりたいとかはなくって、売れないと家の雰囲気が暗くなっちゃうから、夢中になって魚を売っていましたね」

夢中だったからこそ、今ではできない売り方もしていた。

「小学生の頃、後楽園球場とかで見た売り子さんをマネして、スルメの空き箱とかで作った木箱のケースで、売れ残った魚を駅前まで売り歩いていましたよ。食えるようなもんじゃないカピカピになった大トロとかタラコなんだけど(笑)」

1980年代の浦安。周りの自営業の家庭もみな同じだったかといえば、そうではない。

「漁業権放棄で浦安の海が埋め立てられたとき、漁師は土地をもらえたんですよ。頭が良けりゃアパートとか建てたりしたんだろうけど、ウチの親父が無類の酒好きでね。漁師感覚で日銭を全部酒で使い果たしてしまう。だから、母親が飲み屋をやったりして家計を切り盛りしていたから、自分もできるだけ魚を売って協力するしか方法がなかった」


高校を自主退学。いろんな人に出会うために社会に出た

森田釣竿にとって魚屋で働くことはお金を稼ぐという以前の問題、生きるための当然の作業だったといえるかもしれない。

「自分の家で働いても自分には一銭も金が入ってこないってのは当たり前のこと。だから遊ぶ金欲しさに他の場所でも働いていましたよ。中学生の頃は新聞配達とか鰻屋とか弁当仕分けとか」

高校は自主退学。そのきっかけは、些細なことだった。

「つまんない理由ですよ。ウ●コの付け合い、しかも人糞(笑)。それで大喧嘩になっちゃった。いつも付けられていたヤツに、たまには付ける側になってみろと言ったんです。で、いつも付ける側のヤツにそいつがウ●コ付けに行ったら、いつも人に付けてる奴が怒り出してね。その態度にメチャクチャ頭にきちゃって。もっと“付けたり付けられたり”というワビサビを大切にしろ!と(笑)。それが大きな喧嘩に発展して、急に高校が馬鹿馬鹿しくなっちゃって。『もういいや!オレには高校は合わない!』なんて思って辞めました。今考えてみても辞めて本当に良かったって思っていますよ」

高校に通うよりもやりたいことがあったのも事実。

「もっといろんな人に会った方がいいじゃないですか。同じ学校のヤツとずっと話しているより、ほかの学校のヤツとも話した方がもっと面白いって感じですね。昔、駄菓子屋テリトリーみたいなものがあったんですよ。隣の駄菓子屋に○○小の強いヤツがいると聞いたら、飛んでいって喧嘩したりして仲良くなっちゃうような。結局色々な経験を積んだほうが得でしょ。仕事も全く一緒で、いろんなとこで働いたほうが、いろんな人に出会えるわけだから絶対に得!オマケに働いた分のお金がついてくるんだから、高校でチンタラやってるより俺の性に合ってたなぁ」

仕事に対して、人を何よりも優先する。

「この仕事がしたいと考えるより、こんな人に出会えたらいいなという感覚で仕事を探してやっていけばラクですよね。やりたい仕事であっても、その職場に肌が合わない人がいれば必ずストレスになるんだから。仕事よりもやっぱり人との出会いが大切だと思うなぁ。やりたい仕事に就いたけど、無駄な神経使うんだったら、そんなとこすぐ辞めちゃっていいでしょ!いろんな人に会っていろんな経験を積みたいっていう覚悟でやるんだったら、それでも良いと思う。ちょっと乱暴な言い方だけど(笑)」


1カ月で100万円稼ぐために、血尿が出るほど働いた

10代の頃の森田釣竿の働き方は、フリーターだとか雇用形態がどうだとかいう問題ではなく、とにかく極端だった。

「16歳のときにアルバイトを3つ掛け持ちしました。夜勤のガソリンスタンド、それが終わったら市場で働いて、仮眠を少し取ってから屋形船の船頭。で、終わったら、また夜勤にでかけるみたいな」

それだけ働くのには、はっきりとした目的があった。

「音楽をもっと知りたいと思うようになって、まず100万円を1ヶ月で稼ごうと思ったんですね。軍歌、演歌、民謡ばっかり聞いていた自分に、飛び込んできたRUN D.M.Cはやっぱり衝撃だったし、Dischargeという反戦・反核といったメッセージ性の強い音楽も感銘を受けましたよ。なんだか、右から左に急転換した感じだけど、色々な音楽や価値観を自分なりになんとか消化できないかと考えたら、やっぱり音楽を知らないことには始まらないと思って、気合い入れて働きましたよ。W●nnyとか使ってタダで聴けるなんて恐ろしい時代じゃないし(笑)、自分で働いて買うレコードやCDの有り難みは格別でしたね」

アルバイトで1ヶ月に100万円。いくら若く体力があるといっても、無茶である。

「ずーっと寝ないで働きましたね。市場の先輩達の話しを聞くと『そんなの、あたりめぇだ!』って全員が言いますよ。お金に対する目的ある執着心、遊びに対する目的ある執着心を融合して明確にする為には、一度くらいは血尿が出ないと!…嫌だけど(笑)。でも、働いて遊ぶという姿をしっかりと見せてくれた先輩がいてくれたからこそできたことだと思っています」

16歳で血尿を出しながら稼いだ100万円は、結局すべて音楽に注ぎ込まれた。CDや楽器を買いまくり、100万円は3日でなくなったという。

「若いくせに時間がないと思ったんでしょうね。ちまちま音楽を知っていくよりも、一気に音楽を知りたかった。今でもそのお金で買ったものは大切にしてますよ。血と汗の結晶ならぬ、血尿と汗の結晶だけど(笑)」

彼にとって「働くこと=お金を稼ぐこと」だけではない。

「しつこいけど、やっぱり人に会うことが大前提。だから、働いたお金に対しての価値観は普通と違うかもしれない。働いて掴んだ金はどんどん使って廻さないといけないって思っています…ってことは俺も親父に似た気質なのかな(笑)。まぁ、金が無くなれば自然と働くように人間できてますからね。やっぱり金を稼ぐだけよりも、色々な人に出会って自分の経験を上げていくという楽しさが仕事だと思わないと」

16歳で血尿が出るほど働いた男の言葉だから、不思議と説得力がある。


浦安から池袋。毎日1時間20分の逃避行

「血尿が出るまで働くのはもう卒業して、次の目標は血便!なんて嘘だけど(笑)、ま、それから稼いで遊ぶという単調な生活が続くようになっていったら、自然とコピーバンドみたいなものをやり始めましてね。憧れの音楽をやっとできるという喜びだけでバンド活動を始めていきましたね」

しかし、現実に“稼ぐ”ことを考えると、好きなことばかりやっているわけにもいかなかった。

「市場のお客さんが日増しに来なくなってしまって、魚屋の将来にメチャクチャ不安を感じていました。両親の姿を見ていたら、それがなおさら痛く理解できたし。でも、高校を中退しているから学歴が中卒でしょ。それだったら“手に職”というか、何でもいいから先に繋がることをやらなきゃいけないんじゃないかって考えるようになって。たまたまおじさんが美容師だったから、その世界に漠然と入っていったんですね」

今の姿からは想像もできない職である。

「美容学校に入学して、卒業後そのままインストラクターというか美容学校の先生になっちゃって、訳が分からないまま初めて就職というものを体験しましたね。でも、3ヶ月で辞めました(笑)。ずっと、商人の家に生まれ育ってきたから、なんか自分の居場所がないような気になってしまって」

森田釣竿、21歳のときである。

「それから空白の時間、いわゆる“引きこもり”を1年半やってしまいましたね。もう何をしたらいいのか益々分かんなくなってきちゃって。その間、何をしていたかといえば、池袋に夜ラーメンを食べに行く!ってだけの生活を続けていましたよ(笑)」

夜になると、クルマに乗って浦安を出る。

「池袋までの1時間20分くらいの道のりをボーっとしながら何となく考えるのが好きでね。『俺、何したらいいんだろう』とか、『死んだらどうなるんだろう』とか、『みんな今ごろ何やってんだろう』とか…。カッコ悪いけど、そんなことを考えている時間が本当に大切だったんですね」

その頃も家業の手伝いだけは続けていた。

「お金がなくなったときだけ...恥ずかしい話しです(笑)」

後になって思い返せば、そんな時間もプラスになっている面もある。

「家業の市場も大変だし、他の業種に務めたけど続かなかった。自分を責めながらも、実際にやりたいことって本当に何なんだって真剣に考えたときに、やっぱり音楽がやりたいってなったんですよ」


魚屋の三代目が仕事と音楽を融合したら『漁港』ができた

ほとんど何もしなかった1年半。その状況はある仕事をきっかけに終わりを告げる。

「親戚が経営するもんじゃ焼き屋を手伝うことになって、急に働くことの意味を感じ始めましたね。まだまだ漠然としたものだけど、良い意味で“何も考えずに働く”っていうか。その店、魚介類にも力を入れていたんですね。オレ、家業が魚屋だし、客商売にも自信があったから、美容師よりも気負い無く自然と動けたし、何よりも働くことが今まで以上に楽しく感じた。また、そこでいろんな人に出会ったんですよ。前は先輩しかいなかったけど、この店じゃ年下が多く働いていて、また今までとは違う影響も受けたりして。だって、主食がマヨネーズとか揚げ物なんて俺には考えられない!だから、好き嫌いは駄目だ!ってハッキリ言える仲になるまでの時間とか重要だったし、コミュニケーションの大切さを再認識して強いプラスになりましたね。もちろん、家業である魚市場の店にもすぐに戻りましたよ」

そして、音楽活動を再開させる。ただ、以前とは考え方が変わってきていた。

「戻った家業で何をやっても客足が伸びないのと、その頃活動していたバンドに限界を感じ始めまして、また将来で悩むことになるんですね。でも、考えても仕方ないじゃないですか、どうせ今しか見えないんだから。ただ、どっちも諦めずに続けていきたいという気持ちはあるから、いっそのこと仕事とバンドをミックスさせたらどうかって考えるようになってきて、また笑えるような毎日が始まるわけです」

市場で思いついたのは魚屋スタイルのロックバンドでもあり、音楽スタイルの鮮魚商でもあるフィッシュロックという新ジャンル。

「まだ誰もやっていないということに興奮しましたね。ライブハウスで魚を解体して、食べ方とかもついでに説明したり…なんて活動ができれば、若い人にもっと魚食文化をアピールできるとか、バカみたいに色々なことを考えましたね」

それが、『漁港』の始まりだった。未知のスタイル・フィッシュロックだが、ステージ上で見せることは決まっていた。

「ライブハウスにいながらにして、市場や港にいるような錯覚にもっていくようなね」

ちなみに、バンド名は毛蟹の姿から生まれた。

「市場で見た毛蟹でピンときてしまった。毛蟹、シンメトリー(左右対称)じゃないですか。それで『漁港』の港を左右反転させてみたんです」

好きな音楽をやって、少しでも魚の販売促進にもなればいい。最初はメジャーデビューなど考えてもいなかったが、ライブハウスでの地道な「フィッシュ+ロック」活動は少しずつ注目を集め、遂にメジャーデビューをしてしまう。


『漁港』を観た人が帰りに鮪でも買っていってくれればそれでいい

「最初持っていたメジャーのイメージって、巨大ショッピングセンターだったんですよね。だから俺のやる場所じゃないって誘いを断ってきたんです。でも、やってみて良かったと思いますよ。自由にやらせてくれるし、そこで初めて知ったことだって沢山ある。にしても、こんなバンドのシングルを2枚も出してくれるなんて。だって、デビューシングルが“鮪”(まぐろ)でしょ。で、セカンドが“鰹”(かつお)なんてちょっとね(笑)。「売れる気ないでしょ?」なんて言われるけど、けっきょくCDの魚よりも、本物の魚が売れて欲しいわけだから」

作品を生み出すことには、それほど苦労はしていないようだ。

「好きでやってることだから、曲で悩むことはないね。けど、最初に鮪とか鰹とかの“売れ線”をやっちゃったから(笑)、これから作っていく魚が小さくなっていって大変かなって思うときが確かにあります…新曲で“シラス”なんてね(笑)」

それでも、フィッシュロックは広がり続ける。

「『漁港』がイロモノとして見られていることは、やってる自分が一番わかっているんですよ。でもね、バンドで売れる・売れないっていう次元でやってないから。偶然『漁港』を見てしまった人が『カッコいいな『漁港』!値引きされてる鮪でも買って帰ろうかな?』なんてなっちゃったらフィッシュロッカー冥利に尽きるよ。海外でも日本の魚食文化を訴えていきたいって夢もまだ実現していないし」

『漁港』の活動方針は「日本の食文化を魚に戻し鯛!」

「『いただきます』『ごちそうさま』っていう感謝の気持ちが日本にはあるでしょ。だから、普段の癖でそれを当たり前に言うだけじゃなくて、まず食べ物が生き物であり、それに携わった人がいて、食卓に届くという感謝と恩恵の気持ちを忘れちゃいけないんですよね。だから、箸を一回つけといて食べ残すなんて『いただきます』も『ごちそうさま』もないと思うんですよ。大トロ以外の赤身だって美味しいし、目玉だってホホ肉だって食べられるんだから『魚は捨てる部位がない』って基本的なことを思い出してもらいたい。もともと日本人はそういう食文化で生活してきたんですから」

『漁港』のシングル「鮪」は東京都中央卸売市場の推薦曲になり、『漁港』を通じた新たなフィッシュ関係の出会いも待っていた。

「鹿児島県 枕崎市のさつま鰹節協会の皆さんとの出会いは大きいですね。本当の『漁港』でライブをやらせてもらったり、かつおぶしを作る工程を教えてもらったり、打ち上げで芋焼酎をベロンベロンになるまで飲まされたり(笑)、ライブで無料配布する“かつおぶし”を提供してもらったりお世話になりっきりで」


魚屋もバンドも毎日を精一杯やるだけ。笑ってやるだけ

かつおぶしが配られるライブなんて、世界中を探しても他にはないだろう。

「フィッシュとか、フィッシュボーンっていうバンドはありますけどね、まぁ純粋なフィッシュロックをやっているのはおそらく『漁港』だけなんじゃないかなぁ(笑)」

魚屋を継ぎ、『漁港』を始めるまでの試行錯誤を経て、森田釣竿は仕事にも音楽にも一つの考え方を持つことができたようだ。

「結局、CDを出してもそれだけでは生活していけませんからね。とにかく一日一日を大切にやっていくだけ。以前のように、『この先どうしよう。…じゃあ、美容師』なんて焦って決めちゃうと後々無理が出てくるから、できるだけ先のことは考えないように最近はしていますよ。魚市場もバンド活動も経済的には厳しいけど、とにかく笑っていければ幸いです。お客さんとのコミュニケーションを大事にしていけば、どんなに切羽詰まろうが、結果は後からついてくるかもしれないって前向きに考えて。だいたい人は金で揉めるからね。たとえそれがついてこなくても、それはそれで仕方がないことだと割り切って、笑う癖を日常から身に付けておかないと、急には笑えないからね」

最後に森田釣竿のメッセージ。

「やりたいことをやる為のフリーターやニートなら俺はアリだと思う。ずーっとそのまんまじゃ問題あるけどね。やっぱり、誰だっていつかは親孝行したいじゃない? その為にもしっかりと現実を把握して、いろんな場所でいろんな人と出会いリアルな経験を積んでいくこと。あと、決して無理をしちゃいけない! 続かないと思ったら次に進めば良いだけ。石の上にも三年なんていうけど、我慢できる石じゃないと三年もいられないからね。最終的に一人前でも半人前でも、誰かが喜んでくれれば良いだけの話しなんですから」

インタビュー終了後のライブ。この日のトリで出演した『漁港』は、鮪の頭の解体を含めたライブパフォーマンスで大いに観客を沸かせた。解体された鮪はもちろんお客さんに配って持ち帰ってもらう。ライブ終了後の森田のもとには、鮪の目玉や鮪のほほ肉を手にした観客が集まってきて、熱心に調理方法を聞いていた。そのときの森田の姿は魚屋の三代目として「働く男の生き様」を見せているようだった。


本インタビューは、若者の自立支援を目的として、
内閣府が開設したウェブサイト「ニュートラ」に
2006年5月から2007年3月まで掲載されていたものです。